昭和53年06月29日 朝の御理解
御理解 第22節
「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」
昨日は竹葉会でしたから、皆さんのまあ熱心なお話を聞かせて頂いて、本当に合楽で合楽理念、合楽理念と言う事を言われておりますが、十何人の方達が発表されるとは、もうどの人の発表を聞いても素晴らしい発表で、本当に竹葉会というのは、一番まあ程度の低い人達の、まあ集まりと思うておったけれども、もう堂々たる合楽の信心を元にしておかげを受けておられ、そしてその合楽理念を行じておられるという話ばっかりだったのに、もう驚きました。
本当に分かって行きよるだろうか、これほど合楽理念、合楽理念と言う事を内容に、まあ言うならば毎日の御理解が、実は合楽理念なんですよねの内容なんです。それを皆さんが行の上に現して、おかげを受けて行かれておる、と言う事を本当にもう有り難いと思わせて頂いたんですけれども。一番初めに会長であります、福岡の秋永ふみさんが、一口でしたけども発表しておりましたが。毎日毎日を自由自在に自分の心を使わせて頂く稽古をしておりますという一口でしたけれどもその発表を。
他の人達のはまあ堂々たる話でした。皆もう本当に合楽理念を身をもって行じて、そしてもう間違い無く、そこにおかげの実証をしておられる、お話ばっかりでした。けれども結局はやはりフミさんが言われるように、毎日毎日を言うならば、全てを有り難く合掌して受けれるような心、有り難い心にいわゆる、自由自在に使える稽古をしておりますと。中々それが、自由自在に使えないと言う所を、もう少し発表されると、もっと分ったでしょうけれどもね。
ほれでその後は、昨日は末永先生が司会をしておりましたから、その後に申しておりましたけれども、どんなに素晴らしい事を思うても考えてもね、自分の心が神様へ向かうておらなかったら、言うならばお広前を遠ざかっておっては、もうどんな素晴らしい事が分かっても行の上に現す事は出けんと言う様な意味の事を言ってました。確かにそうですね生き生きとして、そのおかげを受けると言う事は、もう生き生きとして神様に取り組んでおらなければ、いかに例えば自分のお家で、まあ自由自在な有り難い心の使い方をしようと思うておってもです、なかなか出けるもんじゃないです。ね。
で私がお話をした事でしたけれども、昨日福岡の古屋さんから電話が掛って来た。毎日、電話が掛って来るです、今病院に入院しておられますから。で先日から一人息子の嫁さんを貰いました。もうそれは大変いい所からとても器量の良い嫁さんです。所がその前後にも色々な、もう本当に断ってしまおうかと言う様な、いろんな問題がまあ話を聞きますと、本当に条件には及ばんのと言う様なお話でしたが、まあここはなら信心のある者が、これをどう受けて行くかと言う事ですからね、と言うておりましたが。
先日昨日一昨日でしたか。あの人達がおかげを頂いて、新婚旅行からも帰って参りました。それでまず合楽にお礼に出なさいよ、そして親戚また特にお世話になった所の家にご挨拶にも行かなければいけないよと再三言うけれども、一向言う事は聞かんね。本当にまあその事がどうも、そのやっぱり心に引っかかって仕方がない。まあうならば息子がまあ嫁御の口に乗ってから、私の言う事聞かんごとなったという感じなんですね。
もうとにかく九十いくつになるおばあさんと、それからいわゆる古屋さんというおばあさんと、息子との親子三人の暮らしです。それでもうやっぱ一緒には生きていけんと言うので、マンションか何かを借りております。それも自分の家の探しとったけれども、自分の家で探しとった所には気に入らんと言うて、向こうの方か何かが大変腹を立ててから、電話をかけて来なさって。
まあ向こうのお母さんが探してあったという、そのマンションに入ってもうそう言う所からもう、全然こちらの意の通りのものはならないわけです。それでもやはり息子の事嫁の事を御祈念させて頂いておりましたら、その御神眼にあの権太さんですね、今あんな人形は少ないけど。京人形にもありますよね、女のまあここ辺とはごんたさんち言います。その日が丁度ここで甘木の親先生がね、神様が人形使いなら私は言うなら人形だと。手をあげれと言われれば手を上げ、足を上げれと言われれば足を上げる。
回り右をせれと仰りゃ、もう本当に回れ右をして来たと。私は神様の人形使いに対する、私は操り人形だと言われたという話を致しましたよね。でとん時でしたから、今日もねその人形の話じゃったけれども、古屋さんあんた自身は言うならば、信心を頂いておるのであるから、しかも手厚う頂いておるのだから、もうとにかく親先生任せ、神様任せの言うならば、操り人形にならなきゃならんけれども。
信心もなからなければ、全然変わった生活から入ってきておるその嫁御を、自分の操り人形にしようとども思いなさんな、と言う事でした。言うならば本当に家の嫁御はごんたさんのごと、こえらしかと言う所だけを見る。またごんたさんのごとこえらしか、器量がいいです。もう本当にごんたさんのごとこえらしか、ならあれに手を上げろ足を上げち言うたっちゃ上げはせんとじゃん。
私はもう信心のね、あの言うなら自由自在に自分の心を有り難い方へ使うと言う事は、根本にそれがなからなければ駄目だと思うですね。言うなら我情です。自分がああ在ってくれると良いけれども、こう在ってくれると良いけれどもとね。と言うて言うならば家の嫁御が言う事を聞かんと言う様な事じゃなくて、もう言う事を聞かせようという心を捨てるんです。そしてこえらしかとんなら、よかとこだけを見て行けと、こう言う事なんですね。私そういう心がね言うならばままよという心だと思うです。ね。
そういうままよという心には、必ずお徳が受けられるですね。上野先生がそれこそ何十年信心一生懸命させて頂いて、初めて心に開かせて頂いたのは一切が神願とね、言うなら心で分かった時にです、もう起きてくる全ての事が、本当にこげな楽なことはありませんと言うておるです。昨日も皆発表が終わりました後に、上野先生最近のご心境を一言話して下さいと言うて、末永先生が言いよりましたけれども、しばらくお話が致しませんでしたから私が申しました。
今上野先生が心は、もう言葉には現されないほどしの心だよと私が。もう言葉には現されんです、そういう心の開けてきたね。言うならばどういう問題が起きて参りましてもですね、それを神願と頂く時にです、どうでも良いという心が生まれてくるです。2~3日前に福岡の麻生さんが誕生日だというので、お礼に出てきて色紙を持ってきた。それで何か一筆書いてくれと言うから、私は「白楽」と書いてやった。白い楽ですね。いつも自分というものが白紙であると言う事。
言うならばどうでも良いという心。言うならば全てが神愛である、神願であると分からせてもらう時に、もう合掌する心以外にないんだ。しかしもうそれがね、どれだけ聞いて来たか分からんけれども、心にそれが開けて来ると言う事がね素晴らしい。いわゆるもう言うなら、大悟と言うてもいいでしょうね、大きな悟りですね。だから例えば私が古屋さんに申しました、ならあんたが御神眼に頂いておるごんたさん、家の嫁御はごんたさんと思うてね自分が手を動かし、足を動かせと言うて動かす人じゃない。
と言うて心を汚すよりもです、ただこえらしい。自分が右にしよう左にしようという心を捨てる事なんだ。だからその捨てる精進をすると言う事は、非常にやっぱきついもありゃ苦しくもある。こんなことほんなこっじゃないと、思うばってんと思うからね。それが翻然となら古屋さんの心の中に開けた時にはです、もうそれこそね、嫁御がああ在ってくれるとよかばってん以上に、そう在ってくれるような、嫁御になることでしょう。ね。それが徳なんです。
だからねもう合楽理念を聞いておるね、一切が神願である一切が神愛ばい。私の前には難儀はないと私が言っておるように、あなた方の前にも難儀というものはないよと。難儀と思うておったのはね、神様の愛の心以外にはないんだよと言っておるけれども、お互いがそれをまだなら難儀と感じておるからね。けれどもそれを神愛、神願と分らせて頂くための精進。そしてそれが翻然として分かるけいこを、お互いさせて頂いておるんだ。けれどもそういう稽古をさせて頂いておるとですね。
そこには必ず天地のリズムが出てくる。リズムに乗って難儀な事も苦労な事も、リズムに乗っての事から楽しくなってくる。腹が立ったりイライラしたり。はあ今自分が白楽の心から遠ざかっておる時だ。はあこれも神願これも神愛と、まぁあただんでも良いから分らせて頂くと、そこんところを通り抜けられる。またそういう頂き方をすると、おかげを頂く。きのうおとといでしたか、学院の学院生から手紙が参りました。その手紙の中に梅山さんが手紙を寄越しております。
その手紙の中に素晴らしい日々の信心修行の事を書いております。その中にこういう歌が出けたと言うて書いてきております。学院ではその食事の後に頂いた茶碗は自分で洗う事になってるんだそうです。その洗いよってから皿を割ったわけですね。例えばなら皿を割ったという時にです、あらっ誰も見とらんなちちっと向こうさやっとこうとかね。あらっとか。何かそう言う様な事だけれども、その皿を割っても、次に生き生きとした心が、皿一枚割ったところから生まれてきてるです。
これは私は、と研修する時に、これはもう一つのインスピレーションだねと言った事でした。言うならば信心が心に向かっておる時には、どう言う様な事があっても起こってもです、その感じる事が神様の心にぴたっと、こう言うなら素晴らしいフィーリングが生まれてくるんです。こういう歌です「皿割りて、新らな心に日々が入り」と。皿という字を「さら」と読んだりまた「新しい」とこう漢字で説明してありますね。
新な心にひびとは、日々と書いてありますね。心さらに、と言う事は「更に」と、こうする時に使うですね。「心更に新々に」それを更に行う時の更と、次にはただのお皿の皿という字と、そすとさらさらの一番最後には「新」という、新しいという字が書いてあるね。「心更に新々になれよと祈るわが心かな」と書いておるですね。皿一枚割ってもです、こういう斬新な心がね、湧きあがってくるようなおかげは、もう心を神様に向け続けておく信心修行をしきっとらなければ、こんな心の状態になれないです。
もう本当にいつも、皿ば割ったらよかのち言うちから、まあ話した事でした。こういう心が生まれてくるんですからね。しもうたほら困った事になった。もう誰ん見とらんなこれは、ちょっと捨てとこうかと言った様なもんじゃないわけですね。そういう心の状態がです、例えば成程合楽ではもうとにかく、全てを有り難い方へ有り難い方へ心を使わせて頂くけいこね。
ですから本当に自由自在に自分の心が使えれるようにと、言うならば毎日稽古しておりますと言うてもね、稽古の実があがらんというのは、本当に取り組んでいない証拠であると同時にね、教えを元にしてからではないと言う事とね、神様を遠ざかっておって取り組んでおると言うておっても、それはただ取り組むだけでおかげにはならない、こういう歌は出てこないね。神様が限りなくお恵みを下さるね。その限りないおかげを限りなく受け続けさせて頂くね。
ためにお互い愈々人間はつちから出でて、土に帰るのだからね、その道中とてもやはり土の心になる事に専念して行く時に、いわゆる充実した言うならば信心。これが私は昨日も思いました事でしたけれども、宗教以前の宗教という根本の、これが原理になるものだと思うですね。金光様の御信心があらゆる、二千年三千年経った宗教がありますけどもね。これはもう人間が助かる事の為にも大変難しい、言うならばお釈迦様は思索の中から仏教が生まれたと、こう言われております。
キリスト教はそれこそ人がたまがる様な奇跡を現させて頂いて、そこに神を感じさせたと言われております。そしてそこから入って愈々究明して行こうとすると、あまりにも難しくてもうとにかく両手を上げて、もう自殺行為にでもなって行かなければ出けないほどに、難しい事になってしまって、人間が助かると言う事には、もう段々縁の遠いものになってしまっておると言う事。そういう宗教の以前のものね。御神訓にもあります様に是からはね、方位を忌まずと教えの昔にかえれよと、こう御教えがあります。
もうこれなんかは、もう素晴らしい事なんですね。方位を忌まずと言う事は、日柄とか方位とかと言った様な、もうこれは人間が作ったんだよと。だからそう言う事を言うなと。言うならキリスト教だって、仏教だって人間が作ったんだよと。だからそう言う事を難しい、ややこしい事を言わずにです、もう人間らしいね。言うならばお魚も食べてもよか肉も食べても良い、お酒も飲んでもよいね。
人間らしい、本当の神様が与えられておる喜びというものをね、十分に感じながら生活させて頂くのが、もう宗教以前の宗教だと、金光教なんですね。だからそこには全てだから、どう言う事であっても、御の字をつけて行けちゅうことになる。こんな事はご無礼こんな事は汚い、そう言う事じゃない。全てに御の字をつけて頂く生き方。方位を忌まずと言う事は、人間の造った言うならば、まあ理屈の様なものはね、ここにはだから宗教だけじゃありません。言うならば道徳的な儒教的なものも入って来るわけです。
孟子とか孔子なんかが言われた、言うなら素晴らしい言葉もありますけれども、教えもありますけれども、そういうのはどこまでも人間が作ったんだから、そんな事じゃ人間な本当の助かりにはならない。人間をただ窮屈にするばかりなんだね。そこで教えの昔に帰ると言う事。なら教えの昔に帰ると言う事は、言うならば天地から出でて天地に帰るのだから、ならその途中も、天地の心を心として行く以外にはないんだと。
それを具体的に言うと、土から出でて土に帰って行くのだから、土の信心土の心とはどういう心かという、ここで言う黙って治めるとか、受けて受けて受け抜くとか、成り行きを尊ぶとか、大事にするとかと言う様な生き方を、愈々身につけて行くと言う事なのですね。宗教以前の宗教という、その言うなら根本になる所のものです。そこに人間が幸せになれれる道がある。誰でもがそれを行じようと言えば、行ずる稽古が出来れる。そして、翻然と開けて来るものの中に、言うならばもうこんな楽な事はない。
という極楽の世界に住む事が出ける。その極楽の世界に住んでおるだけではなくて、その向こうに見えておる所の合楽の世界に、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く世界を目指させて頂くというのが、金光教の信心。だからどうでも私共が土に帰って行く所のおかげを頂くために、その道中もやはり土の信心を持ってしなければならないと言う事。受けものが悪ければおかげが漏るとね。言うならば土のような信心が身について行く限り、おかげを受け漏らす事はない。
勿論そのおかげが小さいおかげから、大きいおかげに育って行く事のために、私共の祈りの内容というものが、段々大きくなって行かなきゃならない。言うならば天地との繋がり、そこに発動がある、天地の御発動を感ずる事が出けるね。その天地の発動が起こっておるのですからこの歯車がね、次の大きな歯車に合うて行くね、とてつもない大きな祈り願いが出来れる実感が、そのまま大きなおかげにもまた繋がるわけ。
だから、そこには、信心の成長が願われるわけなんです。いつまでも、子供であってはならないわけ。ね。そういう手立てを、言うならば、合楽理念は説くわけなんです。ね。どうでしょうね、人間関係のことだけであっても、あの人を自分の思うとおりにしよう、ああしよう、こうしようというだけではなくて、自分自身が、神様の自由自在な操り人形になろうと言う事を心に決めてね。
なら人までも自分任せにしようと言う様な心を捨てきったら、それだけでも楽になる事でしょうね。言うならば白楽の心。これにおかげは限りないおかげが約束されるのです。ね。そしてそこには人間の事ですから、失敗もありますけれども、皿一枚割らせて頂いても、次の信心の手掛りが、しかも何と言うか、もうそれこそさわやかにね、次の信心に飛躍して行って、本当に有り難い。ね。
一つこの歌を覚えて行きなさいよね。三代金光様が日に日にがさらですと仰るでしょうがね。そのさらな心がなからにゃですね、本当には有り難いおかげを、キャッチする事が出けんのですね。ですからそのいかに梅山さんが日々さらな信心をしておるかと言う事が感じられますね。「皿割りて、さらな心に日々入り、心更に、新々になれよと祈るわが心かな」。そういう祈りを持って、日々信心のけいこをすると言う事がですね、言うならば、自由自在に自分の心が使えれる様なおかげにも繋がって来るし、本当に有り難いとそれを頂ける心が生まれて来るんです。ね。
それをまあひっくるめて申しますとです、白楽の心というのは、ままよという心なんです。ままよとは死んでもままよの事だと言うのです。そこに神様の言うならば、十二分の徳を受けようと思えばと言う事になるね。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられんと言う事に成って来るね。今日はそのままよという心を、いわゆる合楽理念を持ってね、今日聞いて頂いた様な角度からね、白楽とか言うなら神願と分かるとかと言う様な教えを頂きながら、聞いて頂いたわけですね。
どうぞ。